■陵水協力講義リーダーシップ論概要
南野輝久(大05回)
日時 10月6日(金) 10時30分〜12時
場所 第二校舎棟1F 22番教室
10月13日(金)はこちらから
大学を出て社会人となる。社会人として心掛けなければならないことは「You attitude」。
すなわち、相手の立場に立って物を考え、行動するということである。
私は先人の秘められた逸話のなかから“成る程”と腹の底から納得できる話を幾つかここに取り上げた。
日常茶飯事の中でさりげなく為された言動が如何に人の心を掴むかを知って頂きたいのである。そして、上司に頼りにされ、部下に慕われる社会人として全うする事の出来る一里塚として、これらの話が今後の貴方方の心の拠り所になれば、これに過ぎる喜びは無い。
■「親孝行の話」
昔、親孝行を自負する若者がいた。
或る時、日本一の親孝行者として、奉行所から表彰された男が近在に居ることを噂で聞いた。彼は早速その男の家を訪ねた。
男は野良仕事に出ていて、老婆が一人留守番をしていた。老婆は男の来訪を歓迎し、息子が如何に自分に良くしてくれているかを得々として語った。
やがて、日が落ちて、息子が帰ってきた。「おっか一、かえったよ!」息子は担いでいた鋤や鍬を放り出し、大声で怒鳴り、どっかと土間の縁側に座った。
すると、今まで愛想良く応対していた老婆は、客人に見向きもせず急いで土間に降り、「やあ、お帰り。われ、疲れたやろ。」と言いながら、いそいそと盥を持って、井戸縁に行き、水を盥一杯に汲み、両手で抱えてうんうん云いながら息子の足元に運んできた。
老婆は息子の草履を脱がし、せっせと息子の足を洗い出した。「一日ご苦労さん。おうおうこんなに汚れとる。」
息子の足を洗い終わると、老婆は息子が放り出した鋤や鍬を丁寧に洗い出した。
息子はそのまま土間から上がり、囲炉裏の側でごろりと横になった。
老婆は、洗い終えた鋤や鍬を土間の端に立てかけ、上がってきた。そして横になっている息子の足、腰をせっせと揉み始めた。「今日も一日、仕事に精を出したのや。足腰がよう凝っとる」息子は「う一ん」と生返事をしながら気持ちよさそうにうつらうつらしている。
若者は黙ってその様子を見ていた。だんだんと腹の底から怒りが沸いてきた。そして若者に対して怒鳴った。「やい、やい!口本一の親孝行者だと言うから来て見たが、そのざまは何だ!おっか一に濯ぎをさせ、鋤、鍬を洗わせ、挙句の果てに足腰まで揉ませるとは!われは日本一の親不孝ものだ!」
息子はきょとんとしてその若者を見つめた。「わしゃ何も親孝行などしとりゃせん。ただ、おふくろが、わしにしてくれることを黙ってさせてやっているだけや」
著者は息子の言葉にはっと胸を打たれた。“そうか!親孝行なぞ努めてするもんじゃない。自然のままに素直に親の気持ちを受け入れることなんだ!”
若者のそれからの親に対する振る舞いが大いに変ったという。
■清水次郎長■
■「人前で子分を叱ったことは御座いません(次郎長と広瀬武雄)」
幕末のやくざの大親分清水次郎長(1820〜1893)の晩年、明治37〜8年戦役(日露戦争)の旅順港閉塞で勇名を上げ、戦死した軍神広瀬武雄中佐(1867〜1904)が訪ねた。
広瀬は次郎長に尋ねた。「次郎長、お前は海道一の親分として、親さえ見離した手の付けられない“ならず者”を千人も手元におき、”親分。親分”と命さえ投げ出すほどに慕われたが、いったいお前は子分に何をしてきたのか?」
次郎長はしばらく黙っていたが、やがて言った。「広瀬さん、私は子分を人前で褒めたことは御座いますが、叱ったことは御座いません」
広瀬は大きく頷いて立ち去ったという。
■「男は度胸(次郎長と山岡鉄太郎)」
幕末一の剣の使い手としても有名であった山岡鉄太郎(鉄舟)(1836〜1888)は、或る日次郎長に尋ねた。「私は剣一筋の修行をしてきた。“突きの山岡”と謳われ、いささか自負するところもあるが、まだ人は斬ったことがない。お前はやくざの親分として随分と喧嘩出入りを行い、人も斬ったそうだが、どのようにして人を斬ったのか伝授してもらいたい。」
「そうですな、切先を合わせて相手の切先をパチンと叩きます。相手がそれに応じてくる奴は強敵です。逃げるが勝ちです。切先を叩いてもがちがちで剣を握っている者は、気が上ずっていて俸立ちで身体の自由が利きません。そんな奴には躊躇なく鍔元で棚手の顔を打つくらい踏み込んで切り下ろしました。倒れない奴はありませんでした。」
■板倉周防守重宗■
■「周防が通る」
京都所司代板倉周防守重宗(1580〜1650)が、ある日、馬に乗って巡察していた。庶民は小腰を屈めて彼を見送っていた。そのとき5-6歳の子供が飛び出してきた。そして彼を指差し、「周防が通る。周防が通る」と憎憎しげに言い放った。
子供の云う事と周防は一旦は通り過ごしたが、ふと、思いに至った。
あのいたいけな童子が、思いつきで京都所司代の要職にある私を呼び捨てにするはずがない。これはあの児童の両親が家で私のことを呼び捨てにし悪口を云っているからに違いない。あの子の親はきっと私に何らかの理由で不満を持っているに違いない。
周防は早速人をやり、子供の両親について調べさせた。案の定、子供の両親は、訴訟を起こし、そして敗訴していた。重宗は、家臣に命じて、その訴訟物件の再調査を命じた。再調査の結果、その子の両親の提訴が正当なもので、誤った裁決がなされていたことが判明した。
子供の一言に気を止めた重宗の気配りと、過ちを糾すに憚らない姿勢は、彼を名判官としての評判を高くした。
■白隠禅師■
■「白隠禅師の引導」
白隠禅師(1685〜1765)は、臨終を迎えている男の枕元に居た。この男は極悪非道の男で、ゆすり、たかり、暴行、傷害など数限りない悪行を重ねてきた。死に臨んで、己の罪行を振り返り、あの世での報いに恐れおののいていた。
「禅師様、私は極楽往生できません。きっとあの世では閻魔様に鞭打たれ、炎熱地獄の中でのた打ち回ることでしょう。お助け下さいませ。白隠禅師様!」
彼はもとおらぬ口で必死に哀願した。
白隠禅師は、硯と筆を持ってこさせ、さらさらと巻紙に筆を走らせた。
そして、彼の耳元で「よし、よし、今わしが閻魔大王に手紙を書いてやった。お前はこの手紙をしっかりと握って、あの世へ行ったら、閻魔大王にこの手紙を渡しなさい。閻魔大王がこの手紙を読めばお前を極楽浄土に送ってくれよう」
男はその巻紙をしっかりと握りしめ安心したように安らかに死んだ。
その巻紙にはこう書いてあった。
「作りおく罪の山ほどあるなれば閻魔の帳につけどころなし」
当意即妙の戯れ歌も安楽往生の陰徳となる。
■「白隠禅師の自戒」
白隠禅師は小坊主が作った雑炊を食べていた。この小坊主はなかなか料理が上手でおいしく味付けされていた。
白隠禅師は舌鼓を打って食していたが、ふと、手に持っていた椀を下に置くと、右手の人差し指で障子の桟を撫ぜた。掃除が行き届いていないのか、障子の桟のほこりが指先についた。
そのほこりを自隠禅師はぺろりと舐めた。そして、白隠禅師は雑炊の残っている腕を取り上げ全て平らげた。
食後、あっけにとられて見ている小坊主に白隠禅師は笑いながら言った。
「わしが障子の桟のほこりを舐めたことを奇異に思うだろう。お前の作ってくれた雑炊があまりおいしいので。わしはその味に溺れそうになった。そこで慌てて障子の桟のほこりを舐めたのだ。まだまだ修行が足りん。」
■一休禅師と袈裟衣■
■「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありあでたくもなし」
一体禅師(1394〜1481)は、さるお大尽に招かれた。一休は継ぎのあたったよれよれの袈裟衣を纏って出かけた。お大尽の屋敷の門に門番が立っていた。一休が門の中に入ろうとすると、門番は見咎めて、「これこれ、ここは乞食坊主の来る所ではない。帰れ。帰れ。」と追い返した。
追い帰された一休禅師は、金襴の袈裟衣に着替えて出直した。門番は丁重に頭を下げて奥へ案内しようとした。一休は、「先ほど来た時は、追い帰された。今回は丁重なもてなしである。このもてなしは、私に対してではなく、この金襴の袈裟衣に対してであると思う。それではこの袈裟衣を置いて私は帰ることとしよう。」と言って、金禰の袈裟衣をその場に脱ぎ捨てさっさと帰ってしまった。
一休禅師の世間に対する皮相的な諧謔である。現代でも、こうゆうことはざらにある。慎まねば成らない。
■山中鹿之助幸盛■
■「先約が御座れば」
尼子十勇士の筆頭で尼子家の忠臣であり、「我に七難八苦を与えたまえ」と神に祈った山中鹿之助幸盛は、尼子家が毛利家に討ち滅ぼされた後、尼子家縁続きの尼子勝久を擁して、尼子家の再興のために奔走していた。
彼は、近畿一円を席巻し、中国地方に進出しようと企図している日の出の勢いの織田信長を頼ってきた。
彼の勇名と忠節ぶりは広く知られており、明智光秀は宴席を設けて彼を招待した。ところが、幸盛は「先約が御座れば」と光秀の招待を丁重に断ってきた。
幸盛は織田の応援を求めにきており、その織田方の有力な武将の招待を断ってきたことに不審を覚えた明智光秀は、ひそかに人を派してその招待先を探らせた。何と、光秀の家臣が鹿之助を招待していた。
光秀は、「先約が御座れば」と織田の著名な武将である光秀の招待を断り、光秀の家臣の招待に応じたその誠実さに感嘆し、その家臣の許に酒餐を持たせ、丁重にもてなすように命じた。幸盛の誠実、光秀の雅量、共に当時の武士の心映えを示すもので清々しさを感じる。
■石田三成■
■「秀吉との出会い」
羽柴秀吉が長浜の領主であった頃、領内を巡回し、途中、咽が渇いたので、近くの寺に立ち寄った。「茶が所望じゃ」何しろ領主様のお成りである。稚児坊主がお茶を両手に捧げて奉った。そのお茶はぬるま湯で秀吉は一気に飲んだ。
「更に一服所望じゃ」稚児坊主が次に差し出したのはやや熱めの茶であった。
秀吉は、庭の景観を眺めながら、さらに一服茶を所望した。差し出されたのは熱いお茶であった。
そのとき、ふと気付いて秀吉は、畏まって控えている、利発そうな稚児坊主を眺めた。「そちは、最初はぬるま湯、次はやや熱い茶、最後に熱い茶を持ってきてくれたが、それには仔細があるのか?」と訊ねた。
「さようで御座います。こちらに見えたとき、大層渇きを覚えておられるようで御座いましたので、ぬるま湯を差し上げました。次にやや熱い茶を。更に庭など愛でながら、茶を喫せられるご様子でしたので熱いお茶を差し上げました。」
秀吉はこの稚児坊主が大層気に入り手元に引き取った。この利発な稚児坊主こそ後の石田三成である。
■「三成と大谷義継」
豊臣秀吉が主催する茶会で.石田三成は、大谷義継の隣に座った。
大谷義継は、秀吉が「十万の軍を宰領できる器量と識見を有している」と絶賛した名将であるが、不幸にしてライを病み、顔がくずれ、白い布で顔を覆って列席していた。
秀吉の点てた茶は回し飲みされ、義継の手元に果た。
義継は作法どおり茶を喫したが、ふと咳き込んで、痰がぽたりと茶碗の中に落ちた。
義継は狼狽し、茶を同す手を止めた。三成は、静かにその茶碗を受け取った。
そして、残されたお茶を一気に飲干した。
「これは、これはご無礼仕った。あまりの美味につい飲み干してしまいました。誠に申し訳御座いませんが、今一つお点前お願いできないでしょうか。」
と三成は深々と秀吉に頭を下げた。
義継が言葉では表せないほど感謝したことはいうまでもない。
そして、三成と義継は死生を共にする固い友情で結ばれた。
後年、関が原の合戦に敗れると分かりながら、義継は西軍に加担し、小早川小金吾秀秋の裏切り軍を一手に引き受け、壮烈な戦死を遂げた。
■「三成と島左近勝猛」
島左近勝猛は、本能寺の変後、中国から打って返した羽柴秀吉と明智光秀が天王山で対戦したとき、光秀に加担しながら洞ヶ峠で日和見し参戦しなかった筒井順慶の侍大将であった。(爾後、日和見主義のことを“洞ヶ峠を極める”という)
その後、筒井順慶に見切りを付けた左近は、山奥に隠れ、晴耕雨読の日々を送っていた。
当時、三成は秀吉の近侍を勤めていたが、その功が認められて二万石を秀吉から賜った。三成は、“大事にご奉公する為には、何よりも良い相談相手となる家臣を持っことである”と考え、島左近勝猛が山に隠れ住んでいることを知るや、彼を訪れた。
左近は最初は、家臣になってくれと頼む三成を相手にしなかった。“この若造がわし程の者に家臣になれとは思い上がりも甚だしい。”
ややからかい気味に、左近は三成に聞いた。
「三成殿の禄高は如何ほどで御座る」
「二万石頂戴している」
「二万石?して、この左近を如何ほどの禄高で召抱えられるお積りか?」
「半分の一万石で如何で御座ろう。勿論それがしもこのままでは居り申さん。貴殿のご助力の下、ますますご奉公に励み、俸禄も増加するであろう。そのときはその増禄の半分をお手前に差し上げると言うことで如何で御座ろう」
「いや、これは面白い約定で御座る。気に入った、お仕え仕ろう」
かくして、天下の名士島左近勝猛は、石田家の家老となった。
三成は懸命にその類い稀な才知で秀吉に仕え禄高は程なく倍増された。三成は約定どおり、島左近勝猛にその半分を加増しようとした。
左近ははっと平伏し、
「手前が頂戴する禄高でお家の役に立つ名士に来て頂きましょう」
と云って、舞兵庫、蒲生郷舎を推挙した。
かくして、文臣といわれながら、石田三成は名立たる武将を傘下に納め、天下の雄たる軍事力を培うことができた。
“三成に過ぎたるものが二つある。島の左近に佐和山の城”
■「黒田長政への献言」
関が原の戦いに敗れた石田三成は、縛されたまま、家康との会見場に引き据えられていた。
そこへ、裏切り者の小早川秀秋がやってきた。秀秋は三成を見下ろし、
「小ざかしい三成め!己が引き起こした戦いに敗れてそのざまは何だ!」と罵った。
「豊家の恩顧をこうむりながら、大事の際の裏切り者め!天下の志あるものは、決して汝を許さないであろう」。と三成は応じた。
秀秋はすごすごと立ち去った。
次に、黒田長政が来た。この様子を見て、自らの羽織を脱ぎ、三成に着せ掛けながら、
「勝敗は兵家の常、さぞかしご無念で御座ろう」と慰めた。
三成はその行為に謝しながら、
「長政殿、恐らく戦後処理で領国の配分のご沙汰が御座ろう。その時は九州筑前を望まれよ。筑前は関東より遠く、海外の交易は博多を通じて盛んで、国は富み、民は強い。ご好意に対して、一言申し上げる。」
長政は大きく頷いて去っていった。筑前黒田藩は明治維新まで栄えた。
■「三成と柿」
関が原の戦いに敗れ、囚われの身となった石田三成は、馬の背に揺られながら刑場に向かっていた。途中、咽が渇いたので水を一杯所望した。
連行者は、
「水はないが、柿が生っている。取って進ぜよう」と云った。
三成は
「ご好意は恭いが、柿は胃弱の私には良くない。結構で御座る」と断った。
連行者は
「失礼では御座るが、御身はまもなく斬首される身、今、柿を食されても、別段のことは無いのでは御座らぬか」と問うた。
その時、三成はやや胸を張り
「大丈夫たる者、死の直前まで身体をいとうもので御座る」と応えた。
連行者は最後の最後まで志を忘れぬ三成の態度に感じ入った。
■上杉鷹山と細井平洲■
■「成せばなる成さねばならぬ何事も成らぬは人の成さぬなりけり」
9代目米沢藩藩主上杉鷹山は、破綻した藩の財政を徹底した倹約令を実施して藩財政を再建し、更に藩政改革を行い、米沢藩15万石を後に英国人探梗家が“アジアの桃源郷”と評するほどに生まれ変わらせた。
これには、鷹山が三顧の礼を以って招聘した、学者細井平洲の力に預かる所が大きい。
鷹山は平洲に訪ねた。
「領国を治めるには、どのような心掛けが必要であろうか」
平洲は、
「四角の枡に味噌を詰め、丸いしゃもじで掬うようになされませ」と応えた。
鷹山は首を傾げ、
「それでは、隅々まで目が行き届かないのではないか?」と更に問うた。
「さようで御座います。枡の小角まで突付くようでは領民は窮屈で縮こまり、活き活きとした空気が街角から消えてしまいます。それに小吏の宰領の揚が無くなり、人材を育て、求めることができなくなります」
鷹山は大きく頷き、「藩富」のためではなく、藩士にも協力させ、「民富」のための産業育成に力を注ぎ、藩の財政改革を成功させた。
■西郷隆盛と大久保利通■
■「短刀一振りあれば」
薩長連合なって、討幕の士気あがる薩摩藩の代表大久保利通は、列藩の代表者会議において、直ちに錦旗の旗を押し立てて討幕の軍を起こすことを主張した。
しかし、土佐藩藩主山内容堂は、坂本竜馬が立案した船中八策に基づき、自藩の家老後藤象二郎が建白した平和裡での“公武合体論”を是として譲らなかった。
幕藩体制の変革には、“ゆっさ(戦争)”によって幕府を崩壊させることが絶対要と考えていた薩摩藩にとって、山内容堂の提議は意に染まぬものであった。
天下の三大賢候と評判の高い山内容堂の理路整然とした弁論は、列席諸藩の代表者の心を動かしていた。“戦争せずに政体を改革できるならそれに越したことは無い”大方の意見はそこに傾きかけていた。
一旦休息し、会議の席を外し、利通は西郷の許に来た。そして西郷に「どうも困ったことだ。皆の意見は容堂候の公武合体論に傾いている」と困惑の表情で眩いた。
西郷は、利通の顔をじっと見詰めて、落ち着いた表情で云った。「短刀一振りあれば済む事で御座る」
大久保ははっとした表情で顔を上げ、西郷を見詰め、そして大きく頷いた。
この次第が、容堂の許に知らされた。“幕府擁護のために命を賭けることもない”容堂は休憩後の会議の場では一切発言しなかった。
そして、討幕の議が可決された。
大事の決断は必死の気迫を持ってなさねばならないことを西郷は淡々と大久保に教えた。
■西郷隆盛■
■「参議殿お迎えに参りました」
ある時、重要な会議に参議である西郷隆盛の姿が見えなかった。会議の時間が迫っている。西郷の家に迎えの使者を送った。
西郷は縁先で下帯一つで胡坐をかいていた。使者は恐縮しながら「閣下、お迎えに参りました」西郷は大きな身体を窮屈そうに折り曲げながら、「これは、お迎えご苦労様です。じゃが、おいどんも困っとる。これが乾かねば着てゆくものがないのじゃ。」
西郷が指差した物干し竿に、洗濯された古びた着物が一枚かかっていた。
■八幡太郎源義家■
■「武士道−勇気から仁へ」
後三年の役で、八幡太郎源義家は、奥州安倍氏の討伐に向かった。奥州一円に勢力を張っていた安倍氏も、中央の討伐軍に押され、最強の砦として立て籠もった衣川の館も打ち破られた。
安倍氏の頭領安倍貞任は、馬に乗り、次の砦へと退いて行った。いち早くその姿を認めた義家は馬を駆り、貞任の後を追った。丁度、矢頃になり、義家は自慢の強弓に矢を番え、きりりと引き絞りながら、逃げ行く貞任の背に声を掛けた。
「衣の館は綻びにけり」
貞任は馬を走らせながら振り返った。そして返した。
「年を経し糸の乱れの苦しさに」
義家はいたく感じ、矢を納め、馬を返した。
合戦の場においても、お互いに名乗りあい、堂々と対等の立揚で戦うのが武士道である。義家は、戦いに敗れ、逃げ走る大将首と取ることを潔しとせず、次の合戦の場にその機会を譲ったのであった。
■徳川家康■
■「人参は羽織で受け取れ」
ある時、徳川家康は功労のあった家臣に、高麗人参を与えた。家臣は思いがけない下され物に感激し、戸惑いながら周囲を見回した。幸い、近くに奉書があったので、その奉書を両手に捧げて、高麗人参を受け取ろうとした。
その時、家康は首を横に振りながら云った。
「高麗人参は高貴な物である。しかし奉書で受け取るのは良くない。奉書は物を受け取る包み紙ではない。奉書は別の使い道がある。無駄に費消してはならない」
そして、家康は家臣の羽織を脱がせて、その羽織で高麗人参を受け取らせた。
家康の合理的な日常を示す一齣である。
■武田信玄と勝頼■
■「自分の食い扶持も量れないようではーー」
信玄と勝頼は食事を共にしていた。勝頼は少量の御代わりを求めた。それを食べ終えると、まだ少し物足りぬらしく更に御代わりを求めた。
その様子を見ていた信玄は、
「己の食い扶持も良く計れぬようでは、甲斐一国すら保ち難い」と嘆いた。
果たして、信玄の死後、勝頼は諸将の反対を押して長篠に出陣し、織田・徳川の連合軍と合戦し、織田軍の鉄砲3,OOO丁・三段構えの布陣に、信玄以来の勇猛な武田騎馬軍団は壊滅し、名立たる武将の殆どが戦死した。
そして、勝頼は、織田・徳川の連合軍に攻め立てられ、あえなく天目山にて自害して果てた。
己の器量を知り、万事、衆議を図り事を運べば、勝頼も武田氏を滅ぼすことはなかったであろう。
■以仁王と剣難の相■
■「高貴なお方が、剣難の相をお尋ねとは」
後白河天皇の第二皇子である以仁王(1151-ll80年)は、ある時、高名な易占いに、
「我に剣難の相があるか?」と訊ねた。
その易者は躊躇せずに
「はい。御座います」と応えた。
以仁王は怪訝な表情で
「何故だ」と問うた。
易者は、謹んで答えた。
「やんごとなきご身分で、およそ合戦などご縁が無く、剣難にお会いになる筈のないお方が、“ご自分に剣難の相があるかどうか”と、お考えになること自体が“剣難の相”のある証拠で御座います」
果たして、以仁王は、源三位頼政と共謀して平家追討の令旨を伊豆の源頼朝を始め全国に雌伏する源氏に発し、平家打倒の挙兵、武装蜂起をうながした。しかし、ただちに平家に露見し、奈良に逃れようとする途中で、宇治川を挟んで平家追討軍と合戦。頼政は討死。以仁王は流れ矢に当って討ち取られた。享年30歳であった。
■吉田松陰■
■「どんな人も、人に優れた長所を持っている」
明治維新の起爆力となった高杉晋作、久坂玄瑞、入江義助、桂小五郎、伊藤博文などを松下村塾で育てた吉田松陰は、密航を企てた罪を問われて受牢したとき、入牢していた強盗、火付け、殺人、すりなどの悪者どもに慕われて、すぐに牢名主になった。松陰という人は、どんな人間でも必ず自分より優れた長所や美点を持っていると心の底から信じていた人のようで、人の短所には目もくれず、その長所のみを取り上げ、その良い所を絶賛し、時にはその人に師の礼を取ったといわれている。驚いたのは悪党共である。今まで世間で歯牙にもかけられなかった連中が、大先生から真面目に真摯な態度で接せられるのであるから、最初は戸惑い、心こそばい思いをしたが、そのうち自分たちを認めてくれる松陰を心から慕うようになり、牢内の空気は一変したといわれる。
このことは、どんな環境の許でも、誠心誠意、己が誠を尽くし、お互いが認め合い、敬愛し合えば立派な生活環境が作れることを教えてくれる。
■黒田官兵衛孝高■
■「天下一の謀将、その時右手は何をしていていたのか」
ある時、武将溜りの部屋に秀吉がふらりと入ってきた。色々と話が弾んだが、ふと、秀吉が興に乗って、「余に不測の事態が起こったとき、次の天下を采配するのは誰か?存念を申してみい。」と諸将の顔を見回した。「されば、家康殿で御座ろう」とある武将は云った。「いや、違うな」秀吉は首を振った。「では、前田殿かな」「いや違う」。諸将は、伊達、蒲生などいろいろと名ある武将の名を上げたが秀吉は全て否定した。「されば、どなたで御座る」思案に余った諸将は秀吉の存念を聞いた。秀吉は「されば、あのチンバよ」と部屋の隅に座っていた、黒田官兵衛を指差した。諸将はあっと声を上げた。黒田官兵衛こそ天下に聞こえた謀将であり、秀吉の天下取りを彼が示唆したことで有名であった。官兵衛は秀吉の意のあるところを察し、早速、致仕し、剃髪して、嫡男長政に世代を譲った。官兵衛の凄さである。
秀吉は死に、1600年、関が原の天下分け目の合戦が起こった。東軍の家康軍に黒田長政は参軍した。長政は秀吉の姉の子で西軍の有力な小早川小金吾秀秋を裏切らせることに成功し、東軍を大勝に導いた。父に劣らぬ策士であった。官兵衛は東西対決は当分の間続くと判断し、その間、九州の平定を志し、兵を盛んに出兵した。しかし、関が原の戦いは一日で終り、官兵衛も無念ながら兵を引いた。
長攻は戦功により、筑前一国を賜り、意気揚々と凱旋し、父孝高に報告した。
「内府(内大臣家康のこと)は私の手を押し頂き、貴殿のお蔭でこの度の戦いは勝つことが出来た。このことはきっと忘れぬぞ、と仰せられた」と得意げに報告した。官兵衛は黙って聞いていたが、長政に聞いた。「されば、内府がお前のどちらの手を取ったのか」「左手でござる」「ふうむ。長政、その時、お前の右手は何をしていたのだ」「はあ?」官兵衛は不肖の子の不甲斐無さにぷいと横を向き、もう何も聞かなかった。官兵衛の天下取りの夢はもう去ったと悟ったのであろう。
■至上の人智■
■「死と子育てとちらが難しいか」
時は中国春秋の時代(約2600年前)大国晋の大臣である趙家に杵臼という男が居候していた。趙家の主が死亡したとき、かねて趙家の声望を妬んでいた仇敵が趙家に無実の罪をかぶせ、その一族を皆殺しにする。赤子であった嫡子は母の裳裾の下に隠されてその場は助かる。しかしこのままではおさまらない。徹底的に探索される。どうしたものかと居侯杵臼となくなった主人の親友程嬰がその赤子の今後の処置を考える。
杵臼は程嬰に問う。“今この赤子を護って共に潔く死ぬのと、この赤子を護り育てて生き延びるのとどちらが難しいことだろうか?”程嬰は怪訴な顔をして答える。“死ぬのは容易い。赤子を護り育てて生き延びるほうが難しいに決まっている。”居候の杵臼はその答えを聞いて、涼やかに程嬰に云った。“それでは、亡くなった主人との付き合いの長さを考えて、私がその容易い方をとりましょう。貴方には難しい方をお願いしたい”
それから二人は長い間打ち合わせをした。その後、程嬰は心変わりをした態を見せ、仇敵の方へ駆け込み、居候の杵臼が嫡子の赤子を匿っていることを告げ、仇敵を山の中の杵臼の隠れ家に誘導した。仇敵の軍勢に取り囲まれた杵臼は、赤子を抱えて隠れ家から出てきた。杵臼はその場にいる程嬰を面罵し、赤子の運命を悲しんだ。仇敵は有無も言わさず杵臼と赤子を串刺しにした。
その夜である。程嬰は亡くなった主人と親交のあった有力な大臣である韓候の門を叩いた。彼の腕の中には一人の赤子が抱えられていた。程嬰は韓候に言った。杵臼と共に死んだ赤子は別人で、この赤子こそ趙家の嫡子であると。韓候は驚き、狂喜した。そして人知れず赤子を引き取り育てた。
赤子はすくすくと逞しく賢く成長した。韓候は折を見て晋公に趙家の無実を明らかにし、趙家の嫡子が生存していることを報告した。趙家は再興され、仇敵の家は族滅された。趙家の嫡子が20歳になり元服の日を迎えたとき、涙をこぼしながら程嬰にこれまでの心労を謝し、これからの孝養を誓った。その時、程嬰は言った。“この日をどれだけ待っていたことか。今や趙家も再興し、これで杵臼との約束を守ることができた。杵臼は20年もあの世で待っている。長い間待たせた。私はこれから逝って報告しなければならぬ。”程嬰はそう言って、自ら頚を刎ねて死んだ。
現代人の感覚ではとてもついて行けないが、やはり心打たれる話である。人と人との精神的な紐帯と喜悦を持ちえた人間こそ、ささやかで短い人生を満喫したことになるのではないか。と改めてつくづくと考えさせられたのである。
■ワーテルローの戦い■
■「死生天に在り」
1815年6月、エルバ島を脱出したナポレオン・ボナパルトは72,000のフランス軍を率いて、ベルギーのワーテルローでイギリスの将軍ウェリントンの率いるイギリス・オランダ68,000の連合軍と対峙した。この会戦は激烈を極め、フランス軍は3万の兵を失い、連合軍も25,000の死傷者を出した。
戦いの余りの激しさに前線を離脱し、後退してきた真っ青な顔の兵士の襟を捉え、ナポレオンは言った。
「汝は永遠に生きようとでも云うのか!死生天に在り。天が汝を殺そうと思えば例え地下百尺にあろうとも、天は必ず見つけ出して汝を殺すであろう!」と言って、兵士を前線に送り返した。
ウェリントンは、同様に脱走してきた兵士に言った。
「汝は怖かろう。実は私も怖いのだ。しかし、我々がここで踏み止まり戦わなければ、ナポレオンは戦野を駆けて、オランダを蹂躙し、イギリスを侵すであろう。我々の家族や家庭は、国はどうなる?我々は家族を守り、国を守る為に戦わねばならない。諸君!戦場に戻ろうではないか!」と励ました。
“死生天に在り。戦え”と叱咤したナポレオンと、
“家族のため、国のため、戦え”と激励したウェリントンと
いずれを取るか、それは諸君たちの選択に任せる。
■或る日のペスタロッチ■
■「子供たちに怪我があってはならない」
子供たちが広場で遊んでいた。中年の男性がその様子をニコニコしながら楽しげに見ていた。
時々、その男性は、小腰を屈めて何かを拾ってはポケットに入れていた。
遠くからこの様子を眺めていた警官は、中年の男がいったい何を拾っているのか不審に思った。
警官はつかつかとその中年の男に近寄って言った。
「いったい、貴方は、先程から何を拾ってポケットにしまっておられるのですか?」と尋ねた。
その中年の男のポケットから出てきたものは、ガラスの破片であった。
「元気で遊んでいる子供たちに怪我があってはならんので、地面に落ちているガラスの破片を拾っていました」中年の男はきまり悪そうに呟いた。
この人こそ、スイスの大教育者ペスタロッチの或る日の姿であった。
|